Essay
★39゛のエッセイ


題名:「地下鉄Part2」

「東京メトロ出入口便利帳」というブックレットをたまたま手に入れた
それには東京の営団地下鉄の乗換案内と乗換駅構内の簡単な地図がついているのだが・・・

見てもサッパリ分からない

思わず「ちょっと待てやゴルァ!」と叫びたくなってしまう。
自分が東京の地下鉄で乗換を行う時はいつも頭上にある「↑○○線」という表示を頼りにしているのだが、もしあれが無くなってしまっても地元の人達はスムーズに移動出来るのだろうか?
しかも地下鉄の路線図(東京で行動する際の必需品)は複雑に入り組んでいて、目的地までどの路線をどう乗り継いで行けばイイのかかなり迷ってしまう。
そして困ったことに各会社の路線図は相互乗り入れをやっている路線は別として自社路線のみを網羅していて他社線に関してはほとんど関知していないのだ。
(時刻表なんかの路線図を見る事でJR線の路線はどう展開しているのかかろうじて理解出来るが、私鉄となるとどの会社がどこをどう走っているのか自分にはまるで分からず大体、JR・私鉄・地下鉄が全て一体となった路線図など今まで一度も見た事が無い)
体で覚えて理解しようと思って東京で移動する際は様々な路線を乗り継ぐようにしているのだが、なんだかますます深みにハマッて行く様な気がしないでもない・・・
誰か助けて〜〜(ToT)
(↑でもこれが東京に行った時の楽しみの一つなんですけどね・・・)
※「メトロネットワーク」営団地下鉄路線図は東京メトロのHPで手に入ります
東京へ行く際はお忘れなく!




題名:「共通の目的」

自分が青年会にたずさわって結構長い時間が経つが、地元である福岡の在日青年だけでなく他の地方の青年達と交流を持つ事が時としてある。
というのもこの在日韓国青年会は全国規模の組織であり、全国の青年を対象とした行事が年に数回行われるからだ。
他地方の青年達を見るとなんとなく地方によって独自のカラー・特色があり、俗に言う「県民性の違い」(←ちょっと表現が違うかも知れない)というものが表れているように感じられる。
と同時に「日本人青年を各地方からランダムに集めてもこうは行かないだろう」とも思ってしまう。
なぜなら青年会にたずさわる青年達は共通した目的と背景を共有する仲間であり、少なくとも自分から望んで活動を行っている者はたとえ住んでいる地方が違えど「在日青年の為に」と活動する事に意義を感じており、大きな行事で集まる度に「青年会をこうしていきたい」と皆が熱く語っているからだ。
そしてそれは自分に「この日本で同じ思いを持った者がいる」という絆を感じさせ、大いに刺激となり青年会の良さを改めて認識してしまう。
青年会のメンバーは皆ほとんどが自分の仕事を持ちながらもプライベートな時間を削って損得勘定等は抜きにして在日青年の為に日々活動している。
日本社会に対する存在のアピールという点ではまだ至らない所もあるかも知れないが、こんな時代に熱い思いを持って活動している者がいるというのも忘れないで欲しい。




題名:「光害(星空と夜景Part2)」

「光害」(ヒカリガイと読む)というのが問題になっている。
光害というのは空気中の分子やほこり・ちり等が人工の光を散乱・反射する散乱光によって夜空が明るくなってしまい星が見えにくくなり天体観測に害を及ぼすという公害の一種である。
自分がこの一連のエッセイを書き始めるにあたって最初に手掛けたのが「星空と夜景」だったのだが、光害の実情について調べてみる程自分が思っていた以上に問題になっているという事を実感した。
あの文章の最後に「星空と夜景、あなたはどちらを選びますか?」と問いかけたが、これを読んでいる人はどう答えるのだろう?
夜景は確かに美しくて文明の匂いを充分に感じさせるのだが、やはり星空の持つ素朴な美しさにはかなわないと思うから自分は星空を選びたい。
文明に満ちあふれた生活も確かに良いのだが、無駄な面を減らす事によって自然との共存は可能なのではないのだろうか?(実際、安易かつ無駄な夜間照明が光害の大きな原因の一つになっている)

星空を見た時、自分は日々の生活に流されていて星を眺める余裕すら無くなっている事にいつも気付かされてしまう。
せめて意識しないで星を見上げられるようなゆとりのある生活をしていきたいと改めて思ってしまうのだ。




題名:「防災の日」

〜〜9月1日は1923年の関東大震災の苦い経験から「防災の日」と定められ、自治体・企業等ではこの日になると各地で防災訓練をとり行っているようです〜〜
この時期になると毎年、TVで訓練風景が取り上げられるのだが、本当にこんなレベルの訓練で大丈夫なのだろうか?
自分は見る度に、いつも「まるでダメだ」と思ってしまう。
何故ならそれらの訓練は実戦を想定した上で行っているかと疑問に感じてしまうからだ。
例えば、デパート等の防災訓練ではTVでは階段を使って上の階から降りていたが、そもそも地震の際には階段自体が使えない状況になっているかも知れないとは防災担当者は考えた事が無いのだろうか?
また、ビルに関しては高層階の窓に非常用のなわばしごが設置されている所も有るが実際に(別の場所でもかまわないが)なわばしご自体を使ってみた事のある人はどれ位いるのだろうか?
そして、デパートに関して言えば最も重大な事だが、店員は災害時にパニックに陥った客の誘導・指揮を行う訓練をやっているのだろうか?(店内には火災の際、有毒ガスを発生する化学物質のような物が大量にある事を忘れてはならない)
これらの疑問が浮かぶように自分が見る限り、現在の防災訓練は形だけしか行われていないような気がするのだ。
そんなのだったらまだ、「災害時にビルの中で閉じ込められた場合、助けが来るまでの期間を生き残る方法」でも研究したほうがよほどイイのではないのだろうか?
とにかく、一人一人の防災意識を高める事から始める必要があると思う。
そんな訳だから一度、自分の頭の中で災害が起こった時の出来事をシュミレーションしてみる事をおすすめする。
イザという時に「何も知らない」と「少しは知っている」とでは生き残れる確率が大いに違ってくるからだ。
皆さんは日頃の備えを行っていますか?
何かが起こってからでは遅いのだ!




題名:「TVゲーム」

自分はTVゲームが好きなのでよく遊んでいるのだが、のめり込み始めてもうどれ位になるのだろう・・・?
大抵の大人達はTVゲームというと決まって批判したがるのだが、その理由は最もだし確かに一理あるだろう。
しかし、一理はあくまでも一理であり決して全てという訳ではない。
ゲームを批判する人達はその面白さをあえて無視しているような気がするのだ。
何より、好きな者から言わせればやっていて面白いし、時には時間のたつのも忘れてのめり込んでしまう。
またその内容もバラエティに富んでいて、ジャンルによっては普段の生活では体験出来ない様な事が疑似体験として簡単に楽しめるのである。(その気になれば世界の王になったり電車や飛行機だって動かせるのだ)
そしてTVゲーム独特なものとして「操作する楽しみ」というのがある。
映画等はゲームと同じく「その作品が持つ世界へ観客をいざなう」という性質をもっているが、映画は自分が単なる受け身の立場でしかないのに対し、ゲームは自分で操作するという行為が加わる事により、より能動的にその作品の世界を楽しむ事が出来るのだ。
そしてもう一つ、「遊びの質を変えられる」というのがある。
つまり、ただなんとなく退屈しのぎに遊ぶよりも個々のゲームにおける様々な対処(=攻略)法を自分なりに研究する事によって時には戦略的な発想を引き起こす事につなげたり、それによって遊びの質も思考のトレーニングへと変える事も出来得るのだ。
まあ、あんまりやり過ぎないようにある程度の節度をもって接すれば、手軽に楽しめる娯楽としては最適のものではないかと思っている。
そして自分はまた新しい体験をしたくてゲーム機の電源を入れるのである・・・
(ちなみに韓国では家庭用ゲーム機よりもPCを使ったオンラインゲームがゲーム環境の主流になっているとの事です。国民性の違いってやつですかねえ・・・)




題名:「○○年後の在日」

○○年後の在日は一体どうなっているのだろうか?
在日に関する色々な本を読んでみると在日人口は現在60万人程だが、この5年間で平均して毎年約1万人づつが帰化していきその数は減少しつつあり、大体どの本を見ても将来的には消滅するのではないかといった感じの事が書かれてある。
そしてそれにつけ加えて、「帰化しても民族の誇りを残せば良いではないか」(いわゆる「韓国系日本人」というやつ)と主張しているのだ。
しかし自分はそうは思わない。
自分的な考え・予想としては「少なくなるのは事実だろうが、このまま残る人はずっと残る」と思っている。
なぜなら、人は変化する動物であり、当然、人の思考(=考え方)というのも時がたてば変化していくものだと自分は考えているからだ。
精神的に「韓国系日本人」でありたいと考えて帰化したとしても、果たしてその人が将来的にもそういう思考を保っている保証があるだろうか?
だが、文字は否定しようの無い事実・証明としていつまでも記録として残る。
その証明を残す為にもこのまま韓国籍を保持していく人もいるのではないのだろうか?
実際に○○年後はどうなっているかは分からないが、少なくとも本に書かれているような自然と消滅するような事にはなってほしくないと願っている。
最後に極真会館・松井章圭氏が師匠である大山倍達氏より帰化を勧められた際にそれを拒否した時の言葉を紹介する。
大山氏:「便宜上、日本の国籍を取るだけなんだ」
松井氏:「先生は母国で生まれ、教育を受け、風土を肌で感じて育っています。でも、私は日本で生まれて日本の教育を受け、自分の民族を証明するものは外国人登録の国籍と受け継いだ血しかないんです。その私から国籍を取ったら、一体何が残りますか?」




題名:「絆」

今回はちょっと「身の上話」っぽくなるのですが・・・
自分の住んでいる街は都市の規模がそれなりに大きい割にはあまり在日の人達は住んでいない。
だから民族学校なんてものも無いし、何より少し前まで自分には在日の友達なんてめぐり会う機会も全く無く、一人として存在していなかった。
故に在日に対する自分の考えかたや自分自身を振り返ると、一人よがりな考えかたになりがちで余り肯定的な見解が導き出せずどうしても暗〜いイメージを抱きがちになってしまっていた。
しかし今は違う
青年会に関わるようになってから在日の同世代の人達との交流を持つようになり、様々な考えかたを知る事が出来、少なくとも「民族としての誇り」と「絆」を自分の中に得られたのだ。
それはこれからの自分の生き方を考える上で非常に参考になっていると思う。
あのまま一人ぼっちだったらと仮定するならば多分、自分は「日本人」の中に埋没してしまい韓国人としての自分の一面を見い出せないまま「見えない存在」として封印してしまう可能性がかなり高かったのではないのだろうか・・・?
しかし、絆を持つ事により「共に今を生きている」という意識が芽生え、それが自分の心の支えの一つに今はなっているのだという事を感じている。
青年会と出会う事によって在日としての自分は救われたのかも知れない。




題名:「流れる水」

以前ここでも取り上げたアラン・ホールズワースの生演奏を体験する事が出来た。
そのサウンドは一つ一つの音がつながりを持っているかのごとく美しく、まるで「流水」の中に自分が放り込まれたような錯覚にとらわれてしまい、会場ではただただ圧倒されるばかりだった。
また、その時の状況によって刻々と変化していくサウンドは自分に「人生のスタイル」というべきものを教えてくれている様な気がしてふと、ブルース・リーの言った言葉が頭の片隅に浮かんで来た。
「形を持たない水になりなさい。水をカップに入れれば水はそのカップの形になり、ボトルに入れればボトルになり、ティー・ポットに入れればティー・ポットになるのです。水は流れる事も出来れば衝突する事も出来るのです。友よ、あなたも水のように生きる事を学びなさい」
(実際にリーは映画「死亡的遊戯」で様々なタイプの敵と柔軟に戦う事によってそれを表現している)
水のごとく滑らかに生きるというのは非常に難しい。
だが、フリー・インプロヴィゼーション的な思想を生活の手段に取り入れる事によってそれを身に付ける事が出来ればそれは人生において非常に大きな物が得られるのではないのだろうか?
実行出来るかどうか分からないが日々、この事を心がけて生活していきたいと今、自分は会場を後にしながら考えている・・・。




題名:「地下鉄」

自分は基本的に乗り物が好きなので、遠出する時なんかはなるべく色々な種類の乗り物に乗ってみたいと日頃から考えている。
特に東京なんかは地下鉄網が十分に発達しているので利用しがいがあり、面白い。
池袋〜六本木間を例に取ってみると
行きは丸ノ内線→日比谷線
帰りは大江戸線→半蔵門線→東西線→有楽町線
なんて事を冗談半分でやってみたりするのだ。
だが、地下鉄に乗っていると(特に地下鉄同士の乗り換えの時等)「自分は今、地上で言えば一体どこにいるんだろうか?」という迷子になったような不安な感覚を時として抱いてしまう。
以前テグ市で地下鉄火災事故があり、多くの犠牲者が出る惨事となったがあの時、人々はどうやって脱出し得たのだろうか?
そして自分は地下鉄の地上出口さえしょっちゅう間違える人間なのだが、こんなタイプの人間はあんな事故の際まっ先に「おだぶつ」となってしまうのだろうか?
少なくとも今の地下鉄に関しては地上位置とリンクした現在位置表示の地図をもっと色々な所に増やしてほしいと思う。
自分の位置を把握する事が出来ればまだマシな対応が可能だと思えるのだが・・・
地下の安全配慮、今のままで十分良いのだろうか?
少し疑問に思ってしまいます。
(注:この文を読む時は時刻表等に付いている地下鉄の路線図を見てもらうとより分かり易いと思います)




題名:「東京サイクリング」

この前、連休を利用して東京へ行って来た。
たまたま兄が東京に住んでいるので、ちょっと頼みこんで深夜の時間帯に自転車を使って、車・電車での観光とはひと味違った形で東京の街並を散歩する事が出来た。
自転車に乗りながら東京の街をじっくり眺めてみると地方出身者からは以外な発見がある。
「土が無い」:道はほとんど舗装されていてナマの土を踏める機会が全く無かった。これでは夏場の照り返しがかなりキツいだろうし、足にも良くないのではないかと思う。
「道ばっかり」:狭い路地を走っているつもりでも、少し行けばすぐに2〜4車線以上の広い道に出くわしてしまった。人口が多いせいもあるのだろうが、深夜でもそれなりに車が走っており歩行者・自転車は油断が出来ない。(ちなみに無燈火で自転車に乗っていると必ずと言っていい程、警官に注意されるとの事です)
「以外と・・?」:車を使ったり、電車を乗り継いだりして都内を移動すると渋滞・乗り換えの時間がかかり「東京は広い」というイメージを感じてしまうのだが、自転車を使うと実はそんなに離れていないのではないかと思ってしまった。(東京人の頭の中の「東京地図」はどうなっているのだろうか?興味がある所である)
「人が必ずいる」:深夜だというのに通りのどこかしらで人の姿を見かけてしまった。これが「都会」という物なのだろうか・・・(24時間営業のスーパー(注:コンビニではない)が所々に在るのには驚いてしまった)
自転車というのは等身大の自分により近い感覚が得られるからこんな見方が出来たのかも知れない。いずれにせよ貴重な経験が得られたと思う。
「東京サイクリング」、あなたも一度試してみてはいかが・・・?




題名:「アラン・ホールズワース」

皆さんはアラン・ホールズワースというギタリストをご存じだろうか?
ホールズワースは1948年生まれの英国出身のギタリストであり、活動を開始して約30年程になるのだが、その間彼は自分でしか出せない「音」をずっと追求し、熟成させてきて現在に至っている。
スタイル的には大まかに分類すると「JAZZ−FUSION」の部類に入るのかも知れないが、しかし、その音はとても個性的で何より他者には決して真似の出来ない「アラン・ホールズワース・サウンド」ともいうべき唯一無二の形態を作り出している。
音楽を作る上で最も理想的なものは「世界中の誰が聞いてもその音が作り出す世界を共感出来る」という状態なのだろうが、はたしてそれを成し遂げられるミュージシャンがどれ位いるのだろうか?
自分にとって現在の多くの音楽は一見すると耳触りが良くて聴き易くがその反面、深い味わいが無く「世界中の〜」というにはとうてい共感する事が出来無いような音が氾濫し過ぎている様に思えて仕方がないのだ。
国際交流と人はた易く口にするが、「音」という側面で見る限り大部分のミュージシャンはそれを達成し得ていないのではないのだろうか?
しかし、ホールズワースの音は教えてくれる。
たとえ派手なヒット作を出さなくとも、自分の確固たる信念とそれを長い間貫き通す固い意思の力があれば世界を音でつなぐ事が出来るのだということを。(現にホールズワースには世界中に信奉者が存在し、数々のプロミュージシャン達の尊敬の対象となっている)
とにかく、その音に一度触れてホールズワースの世界を体験してほしい。
譜面でもない限り音を文字で表す事など不可能なのだから・・・




題名:「自己表現」

先日、なんとなくTVを見ていたらあるトーク番組におすぎとピーコが二人揃って出演していた。
その時ふと気付いたのだが、「おかまの人達は必要以上に女性的な部分を強調しているのではないのか?」という疑問が自分の中に浮かんでしまった。
何故なら番組を見ている時に時折感じたのだが、司会の女性タレントとおすぎ&ピーコ二人の言葉使い・しぐさを比べて見ると「こんな場合、女の人ならこんな反応はしないんじゃないのかな?」と感じてしまうケースが所々にあったからだ。
そしてこのような疑問が浮かんでしまう。
つまり、「自分の中の女性的な部分をあえて強調する事により、見た目は男性でも自分は女性そのものなのである」という事を「彼ら?」は表現したいのではないのだろうか?
この事を在日に当てはめると何か重要な意味が持つ様な気がしてしまう。
日本の排他的な単一民族的発想の下で「在日」という事を認知されにくい現状の環境ではこの様な多少オーバーな表現のスタンスを取る事が在日にも必要になってくるのではないのだろうか?
あえて外へ向かい、韓国人という自分を強調する事により自分自身を在日(=日本で生きている韓国人)として自己表現する手段は難しい面もあるが、このような手段で自分というものを社会に対してアピールするという事は使いようによっては自分の強力な武器になるのかも知れないし、またそれが「在日にしか出来ないこと」の一つではないのだろうかと思うのだ。




題名:「世間は広い」

在日と日本人というのは果たしてどれ位、お互いの事を理解しているのだろうか?
周囲を見回していると、普段はそうでもないが例えばたまたま韓国についての話題が出たような時、なんとなく両者の間には見えない「壁」のようなものが存在しているように感じてしまう。
これは何も在日と日本人の関係だけに当てはまらないのだが、他人に対して互いの立場の背景や現状を本当に理解して行動している人は意外と少ないのではないのだろうか?
もしそうだとしたら、それは不要な誤解の原因となりお互いにとって不幸な結末を招く事にもなりかねないような気がする。
在日もこれからは3・4世が主体となり日本人との関係もいわゆる共存・共生の世代に入りつつあるので、これからはうわべだけでなくこの見えない壁を取りはらい、本当の意味での共生を実現しなければならない。
その為には相互理解という事が必要になってくると思う。
それには他者を理解しそれを受け入れるという「他者性」を身につける事が不可欠であろう。
とりあえず「自分が考えている以上にいろんな意味で世間は広い」ということを常に認識した上で行動する事から始めてみたいと考えている・・・




題名:「二つの国籍」

在日としてこの日本で生きている人は誰もが人生の中で一度ならずとも帰化という事を考えたことがあるのではないのだろうか?
帰化する事には、まあ最終的には個人の生き方の問題に行き着くので他人がどうこう言えることでは無いと思うのだが、一つだけ個人的にどうしても気にくわない所がある。
それは帰化の条件に「前の国籍を放棄すること」という文面があることだ。
これに対して自分が納得する様な明確な理由が見つからない。
何故捨てなければならないのか?
そもそも「一つの国籍しか持ってはいけない」なんて神様が決めた訳でもないだろう!(現に二重の国籍を持つ人は存在するし)
二つの故郷を大切にしている人間にとって片方の故郷をまがりなりにも自分で「捨てて」しまうなんて行為はそれは苦痛でしか無いのではないか?
自分は二つの故郷を大切にして生活して行きたいと考えている。
だから「二つの国籍を持っても良いではないか」と願ってしまうのだ。




題名:「熱帯の記憶」

学生の頃、バヌアツという熱帯地方の島国へ船で行った事がある。
港に着いたのが夜だったので周囲の景色がどんな風になっているのかその時は分からなかったが、朝になり舷窓から外を見るとそこには見慣れた日本の風景とは全く違い、見た事の無い植物が一面に生い繁りまるで「違世界」ともいうべき景色が広がっていた。その時は「温度がたかが何度か違うだけで風景はこんなにも違ってくるものなのか」と妙な気分にとらわれたものだ。
現在、「地球温暖化現象」が進行し地球の平均温度は上昇しているという。
この国には極寒・常夏の国とは違い四季があり、それがこの国の文化の大切な一部分を占めている事は否定出来ない。
だが、温暖化によってそれらは失われてしまうのだろうか・・・?
「文明的な生活」を追求した結果、文化・精神の一部が失われてしまうというのは何と皮肉な事だろう。
せめてこれからは文明と自然が少なくとも折り合いをつけられる様な発展の仕方を考えていく必要があるのかも知れない。
それが出来るのは唯一、「知恵」を持った人間という生物だけなのだ。




題名:「HOME〜故郷」

日本人が普段何気なく使っている「故郷」という言葉に触れた時、在日である自分はある思いをつのらせてしまう。
在日の存在はある意味で根無し草的な部分があり、自分が生まれ育った土地であるにも関わらず、この「場所」を100%純粋に故郷とは言い切れない所がある。
具体的かつ簡単にいうならば、生活面では日本という国土に密着して生きているのだが、自分の周囲を取り囲む様々な要因の結果、精神面(あるいは物事の思考過程)において廻りの日本人とは何か少し違う違和感の様な感覚を自分は時折感じてしまうのだ。
純粋な韓国人的思考を持たず、また日本人的思考とも少し違う在日の感覚は精神のよりどころとしての故郷をまだ充分に造り出せていないのではないのだろうか?
しかし、そんな様々な事柄を乗り越えて行きながら在日は「今」住んでいるこの地域を新しい故郷とするよう自らの手で造り出していかなければならないのだろう。
そう、次の世代の子供達に同じような思いをさせない為にも..




題名:「絵を見て思う」

自分は絵画にはほとんど関心が無いので、故に美術館に行き有名な画家の絵を見ても全く退屈な思いをしてしまうのだが、最近「モーリッツ・エッシャー」という版画家の作品に興味が湧いてきている。
エッシャーの作り出す世界は俗に「だまし絵」といわれるもので、他の多くの画家が作り出す絵とは全く異なり、物体に対しある種の数学的な概念を用い全く別の対象との融合を果たしている所や一枚の絵の中に復合的な視点を取り入れて見る者に視覚的な混乱を引き起こす所等にその面白さがあると思う。
それは日々の生活により固定概念で凝り固まった自分の脳に物事へ対する先入観を捨て去り、発想の柔軟さを持つ事の大切さを訴えかけ一見関係の無い「A」と「B」という事柄も考えを変える事によってそれは調和させる事が可能だということを教えてくれている様な気がするのだ。
特に「上と下」「出会い」等の作品が示している対比の世界は異なる他者に対して最終的に両者の融合を果たす結末には韓国人と日本人の将来的な理想像が暗示されている様にも受け取られる。
絵画の楽しみかたはきっと人によって違うものなのだろうが、時にはこんな見方をしてもいいのでは無いのでしょうか・・・?




題名:「星空と夜景」

最近ふと夜空を見上げて気付く事がある。
それは「星が見えなくなった」ということだ。
昔、自分が小さい頃は夜空を見ると天空一面に広がっている星々のあまりに圧倒的で距離感をも狂わせるリアルな迫力にある種の恐怖すら覚えたものだ。
しかし、最近の夜空にはそれが無い。
なぜなら街の夜景がそれをさえぎり奪ってしまったからだ。確かに都市の夜景はきれいで美しく、またその規模が大きくなるにつれその美しさも増してゆく。
だが、その代わりに我々は何か大切なものを失ってはいないだろうか。
かつてブルース・リーは映画「燃えよドラゴン」の冒頭部分でこう述べていた「それは空にある月を指差すようなものだ、指先にこだわっていてはその先にある大切なものを見失ってしまうぞ」
文明と自然、我々にとってはどちらが大切なものなのだろう?
星空と夜景、あなたはどちらを選びますか?